貧困とは、僕らが許すべきでない生活水準
2016/08/23
貧困ってたびたび問題になりますよね。
そして、ひとたび貧困について思いを巡らすと、とても奥が深く複雑なものだなと思います。
「薪に火をつけてかまどのご飯を炊き、畑の野菜や大豆をおかずにする家族がいる。
こどもは中学卒業後は進学せず何かしらの職に就く。バイトなどで10万円で暮らしていく。
そのうち誰かと結婚して、田舎の元いた土地に戻り自給に近い暮らしをする。子どもができる。父は時々出稼ぎに行く。なんとなく暮らしは成り立ってしまう。」
上記のような暮らしを貧困と言う人もいます。またある人は、そういう人も存在していいんじゃないかと、貧困と呼ぶのはどうだろうと懐疑的になるかもしれません。
阿部彩さんは「子どもと貧困」のなかで貧困定義について書かれています。
貧困は、格差が存在する中でも、社会の中のどのような人も、それ以下であるべきでない生活水準、そのことを社会として許すべきでない、と言う基準である。
この「許すべきではない」と言う基準は、価値判断である。人によっては、「日本の現代社会において餓死する人がいることは許されない」と思うだろうし、またほかの人は「餓死する人がいてもしかたがない」と思うかもしれない。また、「すべての子どもは、本人が希望して能力があるのであれば大学までの教育を受ける権利があるべきだ」と思う人もいれば、そう思わない人もいる。だからこそ、「貧困」の定義は、社会のあるべき姿をどう思うか、という価値判断そのものなのである
(P5 子どもの貧困)
社会のあるべき姿。。
本当に、人によって貧困定義の価値判断は違ってきますよね。
だからこそ、「ランチに1000円以上はぜいたく」とか
「あれこれに数万円のお金をかけるのは贅沢」とか、
収拾がつかない価値判断の乱打戦が繰り広げられてしまいます。
僕としてはせめて
「高等教育を受けたいと思った人は家計経済力に関わらず借金無しで高等教育を受けることができる制度設計がされている社会」
が良いと思います。
PS
「どういう社会にしたいのか。」
そんなこともじっくり考える暇もないくらい、忙しい人が多い社会になっている気がします。
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